エピソード64挑戦の日々
2026年3月19日 UP
群馬県富岡市の
当時は食品添加物による食の安全性が社会問題になっていた。近くの藤岡市で、すでに生協が安全性の高い食品を扱っていると聞いた2人は、すぐに訪ねて入会を願い出た。2人は当時30代、1歳から小学生の子どもがおり、子どもたちに着色料や保存料の少ない安全なものを食べさせたい一心だった。エリア外なので配達はしてもらえなかったが、一つの班として加入し、購入することは認めてもらえた。1975年の暮れのことだ。
所属していた婦人団体の仲間に呼びかけて注文をまとめ、月に3回夕方に、正子さんが自家用車を運転し、春子さんと2人で藤岡まで15品目ほどの商品を取りに行き、帰りに配って回った。正子さんは「本気でやるなら協力するよ」と言ってくれた夫に幼い子どもたちを託した。
やりがいはあったが、口コミで組合員がどんどん増え、数カ月もすると手弁当での活動に限界を感じた。富岡にも自分たちの生協をつくることにし、翌年4月頃から地域団体を訪ね歩いて協力を仰ぎ、加入を呼びかけてもらった。6月には会員244名、出資金34万円、40班で生協設立準備会が発足。「自分たちと同じように安全な商品を求める人が大勢いると分かった」と春子さんは振り返る。
仲間は増えたが、事務所もノウハウもない。春子さんと正子さんも午前中は勤めがあり、専従職員もいなかった。壁にぶつかるたび、話し合って知恵を出し合い、試行錯誤を重ねて乗り越えた。全てが挑戦で、毎日が輝いていた。藤岡の人たちも運営のノウハウを惜しみなく教えてくれた。経理担当だった春子さんは効率的な帳簿付けを教わり、正子さんはスライド映写機を借りて、加入する組合員に向けた「生協とは」「食品添加物とは」の説明会を各地で行った。1.5トンのトラックも譲ってもらい、運転できる知人を探しては配達を頼んだ。「収穫で忙しい農家の人に配達してもらうため、私と子どもでこんにゃく芋堀りをしたこともあります」と春子さん。8月には空き家を事務所として借り、自宅で行っていた受注や集計作業も落ち着いてできるようになった。
藤岡の生協は間もなく西部市民生協となってエリアが広がり、富岡の準備会も加わることになって2人は正規職員に。春子さんは事務で組織を支え、50歳を前に退職した。正子さんは60歳まで勤め、宅配の副センター長やミニコープの店長も歴任した。毎日遅くまで働いて「お母さんは私と生協のどっちを取るの?」と子どもに迫られたこともあったが、組織づくりや組合員対応に力をそそぎ、今につながる活動の基礎を築いた。
西部市民生協は、県内の生協との合併を経て、1992年にコープぐんまとなった。生協とともに歩んできた春子さんと正子さんが「自分たちが手探りで始めた活動が発展して、こんなに大きな組織につながった。頑張ったかいがある」と話すコープぐんまは、今年4月に70周年を迎える。
illustration:Maiko Dake
※このお話は、実際にあったコープに関わる人と人との交流を取材し、物語にしています。登場する人物の名前は仮名の場合があります。





